本コラムでは、元利用者Hさんとインタビュアーの対話を通じて、支援の現場で何が起きていたのかを構造的に整理します。特定の個人の人格や能力を批判する意図はなく、制度と運用の構造的な乖離を検証するものです。
「厳しさ」と「抑制」の決定的な違い
ネット上では「厳しいけれど成長できる環境」という評価も見られますが、Hさんが問題視しているのはどのような点でしょうか。
業務の厳しさそのものではありません。問題は、その「厳しさ」の中身と方向性です。例えば、利用者が業務改善のためにITスキルを活用した案を提示しても、利用者よりもその作業経験が浅いはずの新しく配属された支援員がその内容を技術的に理解できない場合、提案自体が却下される
――あるいは「勝手なことをしないように」という指導の対象にされてしまうことがありました。これは一般就労に向けた「厳しい訓練」ではなく、支援員側の専門知識の不足による、利用者のスキル発揮の抑制です。
「厳しさ」と「抑制」は全く異なるものですね。厳しい環境とは、高い水準を求められるが、その水準に到達するための支援やフィードバックが伴うものです。
一方、利用者が自発的に水準を上げようとする行為そのものを封じるのは、支援の不在、あるいは支援の逆転と呼ぶべき状態に見えます。
まさにその区別が重要だと感じます。「厳しいけれど成長できる」が成立するには、指導する側に、利用者の行動を適切に評価できるだけの専門性が必要です。
しかし、支援員が利用者の提案内容を理解できないとき、「理解できないから保留にする」ではなく、「許可なく業務手順を変えようとした」という規律の問題にすり替えられてしまう。
結果として、利用者は自発的に動くことのリスクを学習し、指示待ちに最適化されていく。これは成長の真逆です。
ダブルバインド ― 評価基準と現場の矛盾
A型事業所が一般就労を見据えた訓練の場であるならば、業務改善の提案はむしろ最も評価されるべき行動です。実際の評価基準との整合性はどうだったのでしょうか。
そこに深刻な矛盾があります。PNXの評価項目には「受け身にならず、日々改善の意識を持って業務に取り組んでいるか」という趣旨の基準が存在していました。つまり、自律的な改善姿勢は制度上は明確に推奨されています。
しかし、その姿勢を実行に移した結果、支援員の理解の範囲を超えてしまうと、評価されるどころか問題行動として扱われる。これはダブルバインド(二重拘束)です。
ダブルバインドは、心理学的に非常に有害な状態ですね。「Aをしろ」と言われてAをすると罰せられ、Aをしなくても「受け身だ」と低評価される。どちらを選んでも否定される状態が続くと、人は無力感を学習し、やがて自発的な行動そのものを放棄します。支援の場でこれが常態化していたとすれば、利用者の成長を促すどころか、むしろ主体性を系統的に削いでいたことになります。
概ねその通りです。そして厄介なのは、外部からはこのダブルバインドが見えにくいことです。評価項目に「改善意識」が含まれている以上、制度上は「成長を促す仕組みがある」ように見える。
しかし運用の実態としては、その項目が機能するための前提条件――支援員が利用者の改善行動を正当に評価できるだけの専門性――が欠けている。制度と運用の間にある、この隠れた断絶こそが問題の核心です。
逆方向の「説明コスト」
その断絶は、 本レポート第5章 で指摘した「スキルアップの阻害」の構造と一致しますね。現場では、この構造が日常的にどのような負担として現れていたのでしょうか。
最も消耗したのは、いわば「逆方向の説明コスト」です。本来、支援員は利用者の業務を理解し、適切な助言を行う立場にあります。利用者が困っているときに「こうしたらどうか」と導くのが支援です。
しかし実際には、利用者の側が「なぜこの手法が有効なのか」「この改善によってどのような効果が見込めるのか」を、支援員に対して基礎的なところから説明し、納得してもらわなければ業務を進められないケースが繰り返されました。
支援関係の逆転ですね。
利用者が支援員を「教育」するためにリソースを割かざるを得ないという状態は、本来の支援の目的から完全に逸脱しています。しかも、その説明努力が評価されるわけでもないのでしょう。
されません。
むしろ「説明が必要になるような複雑なことをしようとするな」という方向に収束していきます。つまり、支援員の理解力が業務レベルの上限を規定してしまうんです。利用者がどれだけ高いスキルを持っていても、支援員が理解できる範囲のアプローチしか認められない。本来は利用者の能力の上限を引き上げるべき支援が、支援員の能力の上限に利用者を押し込める構造になっていました。
セルフケア手段の剥奪 ― 見えない補助具を取り上げる構造
ここでもう一つ、見落とされがちな側面を掘り下げたいと思います。利用者が業務に自分なりの工夫を加える行為は、純粋な効率化だけが目的ではないはずです。
・・・ええ、その通りです。例えば、仮に効率が劇的に上がらなかったとしても、「ミスが起きにくい手順を自分で構築する」こと自体に大きな意味があります。特に、注意の配分に特性がある障碍者にとっては、チェックリストや補助的な仕組みは単なる便利な手段ではなく、「ミスをするかもしれない」という常時バックグラウンドで走り続ける不安を軽減するためのセルフケアの手段でもあるのです。
自分の認知特性を理解した上で、自分で自分の心理的な安全を確保する営みと言ってもいい。
そうなると、その工夫を「ルール外だから」と取り上げる行為の意味も変わってきますね。それは単に業務手順の統制という話ではなく、利用者が自ら構築した心理的安全の仕組みを破壊する行為になる。
まさにそうです。極端に聞こえるかもしれませんが、構造としては、歩行に困難がある方の補助具を「正規の手順にないから」と取り上げるのと変わりません。目に見える身体的な補助具であれば、それを取り上げることが加害であると誰でもわかる。
しかし、認知的な負荷を軽減するための工夫は目に見えにくいため、その工夫がなぜ必要だったのかが理解されないまま排除されてしまう。
しかも、A型事業所は障害特性への配慮を前提とした福祉サービスです。
2024年4月から民間企業にも義務化された合理的配慮の提供という観点から見れば、利用者が自発的に行っている認知的なセルフケアを尊重し、必要に応じて環境に組み込んでいくことこそ、支援員に求められる姿勢のはずです。
そうですね。ところが現場では、その逆のことが起きていました。そして最も厄介なのは、取り上げる側に加害の自覚がないことです。支援員の主観としては「統一された手順を維持している」「ルールを守らせている」という、正当な業務管理の範囲内で行動しているという認識なのだと思います。利用者がなぜその工夫を必要としていたのか――その背景にある認知的な負荷や不安――に想像が及ばないから、自分の行為が何を壊しているかが見えない。場合によっては「適切な指導をした」という誤った自己評価すら持っている可能性がある。
それは先ほどの「支援員の理解力が業務レベルの上限を規定する」という構造と根が同じですね。
技術的な改善提案が理解できないのと同様に、認知的なセルフケアの必要性も理解できない。見えないものは存在しないことにされてしまう。そして「指導」という名目が、その剥奪行為を正当化する装置として機能してしまう。
ここに、「成長意欲」というナラティブの最も残酷な側面があると思っています。利用者が自分の特性と向き合いながら編み出した対処法を、「わがまま」や「逸脱」として切り捨てる。それを「一般就労に向けた厳しい訓練」という美しい言葉で包む。
しかし実態としては、障害特性への配慮を放棄した上で、その放棄を訓練の名の下に正当化しているだけです。
組織の防衛機制 ―「一般就労の厳しさ」という万能の盾
それは 本レポート第9章 の統合分析で指摘された「管理効率が利用者の能力開発よりも優先される」という構造そのものですね。こうした状況を上層部に指摘した際、組織としてはどのような対応がなされたのでしょうか。
建設的な対話が成立する場面はほとんどありませんでした。指摘に対する典型的な応答は二つのパターンに集約されます。
一つは「一般就労ではもっと理不尽なことがある。ここで耐えられないなら通用しない」という一般論へのすり替え。
もう一つは「それが気に入らないなら独立でもすればいい」という極論への飛躍です。
どちらも、指摘された具体的な問題
――支援員の専門性不足や評価基準との矛盾――に対する直接的な回答にはなっていませんね。
なっていません。「一般就労の厳しさ」は事実として存在しますが、それは「A型事業所における支援の質が低くてよい」ことの正当化にはなりません。
一般就労が厳しい環境であるからこそ、そこに送り出す前の訓練の質が重要なはずです。「社会は厳しい」という言葉が、支援の質を問う声を封じるための万能の盾として使われていたのが実態です。
「嫌なら独立すればいい」という極端な応答についても、論理的な問題を指摘しておくべきでしょう。
A型事業所は障害者総合支援法に基づく福祉サービスであり、利用者の能力向上と一般就労への移行を支援する法的な責務を負っています。
利用者がその責務の履行について疑問を呈することは、制度の利用者として当然の権利です。それを「嫌なら出ていけ」とも受け取れる物言いで封じるのは、自らの責務の放棄を利用者の自己責任に転嫁する論理です。
その論理を裏返せば、福祉としての支援義務を果たすことが「嫌」なのであれば、福祉の現場に携わるべきではない、ということになります。利用者に対して「嫌なら独立すべき」と言うのであれば、同じ論理で「福祉的な責務を果たすのが嫌なら一般企業に行けばいい」とも言える。
しかし、その選択肢を取らないのは、おそらく福祉の現場にいることで得られる何か――権限と裁量の非対称性、利用者との間に制度的に保証された力関係――を手放したくないからではないか、という疑念が生じます。
支援と管理の二重構造 ― チェック機能の不在
重要な指摘ですね。一般企業においては、部下が上司の指示に異議を唱えるルートが制度化されている場合が多く、上司のマネジメント能力自体も上層部から評価されます。
しかしA型事業所における支援員と利用者の関係は、雇用関係であると同時に支援関係でもあるという特殊な二重構造を持っています。
この構造の下では、支援員に対するチェック機能が制度的に脆弱になりやすい。
そこが核心です。支援員は「支援者」であると同時に「業務管理者」でもある。利用者に対して業務上の指示を出す権限を持ちながら、同時に利用者の福祉的なニーズに応える義務も負っている。
この二つの役割が同一に集約されているため、「業務管理上の指示」と「福祉的な支援」の境界が曖昧になる。その曖昧さの中で、利用者のスキルを抑制する行為が「業務上の必要な管理」として正当化されてしまう余地が生まれるんです。
ここまでの議論の整理 ― 四層構造
「高いレベル」「成長できる環境」「一般就労を見据えた厳しさ」という対外的なイメージ。
支援員の専門性不足により、利用者の自律的な改善行動が理解されず、抑制される。利用者は指示待ちに最適化され、スキルは支援員の理解力を上限として頭打ちになる。
明文化された評価基準では改善意識を求めながら、現場では改善を制止するダブルバインドが常態化している。
制度は存在するが、それを運用するための前提条件が欠けているため、形骸化している。
「一般就労の厳しさ」「嫌なら他を当たれ」という言説によって、組織の構造的な問題が個人の適応不足や覚悟の問題に転嫁される。
「ボーダレス」の二重基準 ― 理念と実態の乖離
ここで一つ、事業所が掲げている理念そのものに立ち返って考えてみたいと思います。
パーソルネクステージは「一般就労に近い、レベルの高い環境」を提供することを強みとして打ち出しています。しかし、ここまでの分析を踏まえると、そこで再現されているのは一般就労のどの側面なのか、という問いが浮かびます。
本来、福祉サービスとしてのA型事業所が「一般就労に近い環境」を謳うのであれば、再現すべきはスキル習得の機会、適正な評価制度、キャリア形成への接続――つまり一般就労の「良い部分」のはずです。しかし実態として再現されていたのは、メンツを重視した上下関係、異議申し立ての封殺、従順さへの過剰な評価といった、一般就労においても本来是正されるべき「好ましくない部分」でした。
むしろ福祉サービスの枠組みの中では、そうした一般就労の負の側面から利用者を保護しつつ、必要なスキルを伸ばせる環境を整えることが求められているはずですね。
障害者総合支援法の理念に照らしても、また2024年4月に義務化された合理的配慮の提供という観点からも、「一般就労に近い」を「一般就労の権力構造をそのまま持ち込む」とすり替えてしまうのは、制度の趣旨から大きく逸脱しています。
さらに言えば、パーソルネクステージは「『はたらく』にボーダレスな世界を。」というスローガンを掲げています。
しかし、ここまで述べてきた実態を踏まえると、ボーダレスどころか、支援員と利用者の間に意図的に過度な権力勾配を設計し、利用者がそれを越えようとすると「立場を弁えていない」として抑制される構造がありました。スローガンで謳われている理念と、現場で実際に運用されている力学との間には、看過できない乖離があります。
・・・その乖離こそが、「成長意欲が求められるストイックな社風」というナラティブが果たしている機能を象徴しているように思います。外部に向けては「高いレベルの環境」「ボーダレスな世界」という理念を発信しながら、内部では利用者の主体性や改善提案を「逸脱」として処理する。理念は対外的なブランディングとしては機能しているが、現場の支援には反映されていない。
この二重構造が、利用者にとっては「言っていることとやっていることが違う」という不信感の根源になりうるのではないでしょうか。
はい。そしてその不信感を利用者が表明した瞬間に、「企業批判をする問題のある利用者」あるいは「組織の秩序や輪を乱す存在」というレッテルが貼られる。
結局のところ、「ボーダレス」という言葉が実際に意味しているのは、利用者にとってのボーダレスではなく、事業所が利用者のあり方を一方的に規定する際に、福祉と一般雇用の境界を都合よく使い分けられるという意味でのボーダレスなのかもしれません。
都合のいい時には「専門的なスタッフによる、充実した支援体制を提供できる」とアピールし、都合の悪い時は「ここは一般就労に近い環境だ、ビジネスマナーとして上下関係を弁えましょう」と求める。
どちらのフレームを適用するかを決める権限は常に事業所側にある。
「成長」の非対称性 ― 支援者に成長は求められないのか
ここまでの議論を踏まえると、もう一つ重要な非対称性が見えてきます。
事業所は利用者に対して「成長意欲」を求めます。評価項目にも「改善の意識」が明記されている。
しかし、利用者が支援員に対して「支援者としての成長」を求めることは許容されているでしょうか。
されていませんでした。少なくとも、私が在籍していた現場ではそうでした。
利用者には「成長」が求められ、その達成度が査定される。
一方で、支援員の支援スキルや専門性に対して利用者がフィードバックを返すことは、「立場を弁えていない」と受け取られるため黙るしかない。しかし本来、支援関係とは双方向的なものであるはずです。利用者に成長を求めるのであれば、支援者もまた支援の質を高め続ける義務がある。それを利用者が対等な立場から求めることは、何も不当なことではないと思います。
その双方向性が欠如した状態で行われる「指導」は、福祉としての支援と呼べるのかという根本的な問いに行き着きますね。
呼べないと思います。一般就労における上司と部下のような権力勾配のもとで、心理的安全性を剥奪した状態で行われる一方的な指導は、「支援」ではありません。
そしてそれに利用者が適応したとしても、それは「成長」ではない。心理的安全性がない環境で従順になることは、主体性を手放して自分を守っているだけです。
先ほどのセルフケア手段の剥奪の話と根は同じで、本来その人が持っていた力
――意見を述べる力、改善を提案する力、不合理に対して声を上げる力――を削り取った結果として生まれる「おとなしさ」を、支援の成果と呼ぶことはできません。
むしろ、そうした力を持ったまま社会に参加できるよう環境を整えることが、合理的配慮を前提とした福祉サービスの本来の役割であるはずです。利用者の主体性を削減して得られる「適応」は、一般就労への移行にとってもマイナスになりかねないと思います。
なぜなら、心理的安全性のある職場環境でスキルを伸ばし、自律的に働く力こそが、持続可能な一般就労に必要な能力だからです。
・・・はい、その通りです。「おとなしくて従順な利用者」を量産することが支援の成功指標になっているとすれば、それは利用者の自立を支援しているのではなく、事業所にとって管理しやすい人間を作っているだけです。そしてそのような環境で「成長した」とされる利用者が一般就労に移行した先で、自分の意見を適切に伝える力や、不合理な状況に対処する力を求められたとき、その人はどうなるのか。事業所が削り取ったものの代償は、利用者本人が支払うことになります。
補足 ― 構造批判と個人の倫理的責任
補足しておきたいのは、これは個々の支援員の人格や能力を批判する意図ではないということです。現場の支援員自身も、十分な研修を受けないまま、ITを中心とした業務の管理を求められている場合があり、構造的な被害者でもあり得ます。問題の根源は、支援員の専門性を担保するための研修体制が不十分であること、そして利用者と支援員の間に健全なフィードバックループを設ける仕組みが組織として整備されていなかったことにあります。個人の資質ではなく、仕組みの欠陥です。
ええ、しかし同時に、仕組みの欠陥があるからといって、その中で利用者の尊厳を損なう対応をしてよいという免罪にはなりません。構造を批判しつつも、その構造の中で自覚的に行動する倫理的責任は、支援に携わる一人ひとりに問われるべきですね。
本コラムの位置づけ
本コラムは、 本レポート第5章「内部からの視点」 で概観した問題点のうち、「スキルアップの阻害」および「ハラスメントと心理的支配」に焦点を当て、元利用者の具体的な経験に基づいて再構成したものです。
「成長意欲のない人がついていけなかった」という自己責任論は、A型事業所の構造的課題を個人の問題に矮小化する危険なナラティブです。
本コラムが、これから利用や就職を検討される方々にとって、判断材料の一つとなれば幸いです。