調査分析レポート

日本におけるスラップ訴訟の企業責任と抑止策

判例の網羅的分析と具体的方策の提言

公開日: 2025年8月10日 (更新日: 2025年8月31日)

クロストーク「社会の交差点」

レポートの目次

エグゼクティブ・サマリー

本報告書は、日本における「スラップ (SLAPP)訴訟」、すなわち市民の正当な言論活動や社会参加を萎縮させることを目的とした報復的・威圧的訴訟について、包括的な分析を行うものである。特に、企業が原告となり、その法的責任が問われた司法判断に焦点を当て、隅々の判例を精査し、将来的なスラップ訴訟を最大限に牽制するための方策を具体的に提言することを目的とする。

分析の結果、以下の点が明らかとなった。
第一に、日本にはスラップ訴訟を直接規制する「反スラップ法」が存在せず、現行法下では「訴権の濫用」という不法行為法理に頼らざるを得ないこの法理は「裁判を受ける権利」との緊張関係から適用要件が極めて厳格であり、提訴された側は、訴訟が違法と判断されるまでに甚大な経済的・精神的・時間的負担を強いられる。この「訴訟プロセスそのものが制裁となる」構造が、スラップ訴訟の威圧・消耗効果を助長している。

第二に、下級審の裁判例の蓄積により、企業によるスラップ訴訟の違法性を判断する基準が形成されつつある。裁判所は、単に訴えの法的根拠の有無を問うだけでなく、不相当に高額な請求額、批判的言論を威嚇・抑圧しようとする主観的意図、同種の訴訟の乱発といった原告企業の行動様式を重視し、訴えの提起が「裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠く」場合に不法行為責任を認定している。

第三に、現状の救済措置には深刻な「抑止力不足」が存在する。スラップ訴訟と認定された場合に被告(反訴原告)が受け取れる損害賠償額は100万円から200万円程度に留まり、大企業にとっては批判者を沈黙させるための「事業コスト」として容認可能な水準である。これは被害者の受けた苦痛を十分に填補するものではなく、将来の同種訴訟を抑止する機能を果たしていない。

以上の分析に基づき、本報告書は以下の三層からなる多角的な抑止戦略を提言する。

  1. 立法的措置:
    米国カリフォルニア州やカナダ・オンタリオ州の法制度を参考に、訴訟の早期却下申立制度、立証責任の転換、そして勝訴した被告への弁護士費用全額の強制的な補償を柱とする日本版「反スラップ法」の制定が不可欠である。
  2. コーポレート・ガバナンス改革:
    スラップ訴訟を単なる法務リスクではなく、企業の社会的責任(CSR) および人権デュー・ディリジェンス(HRDD)における重大な課題と位置づける。企業は、表現の自由を尊重し、スラップ訴訟を提起しないという方針を公約し、投資家や市民社会からの監視を受け入れるべきである。
  3. 市民社会・法曹界の連携強化:
    スラップ訴訟の被害者を支援するためのNPOや弁護士会による専門相談窓口の拡充、そして経済的脆弱性を補うための訴訟費用支援基金や専門の弁護士費用保険制度の創設が急務である。

これらの提言は、個別の訴訟における事後的な救済に留まらず、スラップ訴訟の発生そのものを予防し、健全な市民的議論と企業の健全な発展を両立させるための社会基盤を構築することを目的とするものである。

第1章:日本におけるスラップ訴訟の構造

1.1. スラップの定義: 戦略的威圧と正当な権利行使の境界

スラップ訴訟 (SLAPP: Strategic Lawsuit Against Public Participation)とは、その頭字語が示す通り、「公衆の参加を妨害することを目的とした戦略的訴訟」を指す。これは、企業や行政、権力者などが、自らにとって不都合な批判、告発、抗議活動などを行う個人、市民団体、ジャーナリストらに対して提起する民事訴訟である。日本においては、「口封じ訴訟」や「威圧訴訟」とも呼ばれる。

スラップ訴訟の核心的な特徴は、その主たる目的が訴訟に勝訴すること自体にあるのではなく、訴訟を提起する行為そのものを通じて相手方を疲弊させ、沈黙させる点にある。原告は、被告に対して応訴に伴う多大な時間的、金銭的、そして精神的な負担を強いることで、批判的な言論活動を断念させ、あるいは将来の活動を躊躇させる「萎縮効果」を狙う。

具体的には、スラップ訴訟は以下の特徴によって識別されることが多い。

これらの特徴は、スラップ訴訟が単なる法的紛争ではなく、表現の自由や市民の知る権利といった民主主義社会の根幹を揺るがす深刻な問題であることを示している。

1.2. 日本の法的文脈:「訴権の濫用」法理という事後的対抗策

日本には、米国の一部の州やカナダなどで導入されているような、スラップ訴訟を初期段階で迅速に排除するための特別な手続きを定めた「反スラップ法(Anti-SLAPP Act)」が存在しない。この法制度上の空白が、スラップ訴訟の提起を容易にする一因となっている。

現行法下でスラップ訴訟に対抗する主要な法的手段は、民法および民事訴訟法上の一般原則である「訴権の濫用」の法理である。これは、訴えの提起が、裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠く場合に、その提訴行為自体を違法な不法行為(民法709条)とみなし、提訴された側(被告)が提訴した側(原告)に対して損害賠償を請求(反訴)することを認めるものである。

しかし、このアプローチには構造的な限界が存在する。「日本国憲法第32条は、何人にも裁判を受ける権利」を保障しており、この権利は最大限尊重されるべきものと解されている。そのため、裁判所は訴えの提起を違法と認定することに極めて慎重であり、そのハードルは非常に高い。最高裁判所が示した基準によれば、訴えの提起が不法行為となるのは、提訴者の主張が事実的・法律的根拠を欠き、かつ提訴者がそのことを知りながら、あるいは通常人であれば容易に知り得たにもかかわらず敢えて提訴したなど、極めて例外的な場合に限られる。

この構造がもたらす最も深刻な問題は、スラップ訴訟の被害者が救済を得るためには、まず訴訟の全プロセスを耐え抜かなければならないという点である。反スラップ法が存在する法域では、訴訟の初期段階で「これはスラップ訴訟である」との申し立てを行い、審理を打ち切らせる手続きが可能である。
しかし日本では、そのような早期解決の仕組みがないため、被告は巨額の弁護士費用を支払い、膨大な時間と労力を費やし、深刻な精神的苦痛に耐えながら、本案の審理が終結するのを待つしかない。つまり、スラップ訴訟の原告が狙う「訴訟プロセスによる消耗・威圧」という目的は、被告が最終的に勝訴し、反訴で損害賠償を一部勝ち取ったとしても、その時点では既に達成されてしまっているのである。現行の「訴権の濫用」法理は、抑止的な機能を持つ予防策ではなく、被害が発生した後の不十分な事後的救済策に過ぎない

1.3. 「萎縮効果」: 抑制される公論がもたらす社会的コスト

スラップ訴訟がもたらす悪影響は、訴えられた当事者個人の被害に留まらない。その最も広範かつ深刻な影響は、社会全体に及ぶ「萎縮効果 (Chilling Effect)」である。

企業や行政の不正、環境問題、人権侵害といった公共性の高い問題について声を上げた個人や団体が、報復的に巨額の訴訟を提起される様を目の当たりにした他の市民やジャーナリストは、自らも同様の標的になることを恐れ、発言を躊躇するようになる。これにより、社会にとって不可欠な監視機能や健全な批判的言論が抑制され、公の議論が痩せ細ってしまう。これは、民主主義の基盤である表現の自由(憲法21条)に対する間接的だが極めて強力な制約となる。

被告個人が被る具体的な被害は、以下の三つの側面に大別される。

  • 経済的負担(Economic Burden):
    スラップ訴訟は、たとえ完全に勝訴したとしても、被告に壊滅的な経済的打撃を与えうる。例えば、1億円の損害賠償請求を棄却させた場合でも、旧弁護士報酬基準に基づけば、着手金と成功報酬を合わせて1000万円を超える弁護士費用が発生する可能性がある。この経済的リスクは、個人やNPOにとって活動継続を不可能にしかねない。
  • 心理的負担(Psychological Burden):
    大企業から法外な金額を請求されるという事態は、被告に計り知れない精神的ストレスと不安を与える。訴訟の長期化は、被告とその家族の平穏な生活を根底から覆し、心身の健康を蝕む。
  • 労力的・時間的負担(Labor/Time Burden):
    訴訟に対応するためには、事実関係の整理、証拠の収集、弁護士との打ち合わせ、裁判期日への出廷など、膨大な時間と労力が必要となる。これにより、被告は本来の仕事や活動に専念することが困難になる。

このように、スラップ訴訟は、法廷での勝敗に関わらず、そのプロセス自体が被告と社会全体に甚大なコストを強いる。この「プロセス・イズ・パニッシュメント(過程こそが罰)」という現実が、スラップ訴訟を極めて悪質かつ効果的な言論封殺の手段たらしめているのである。

第2章:司法判断における企業責任の確立

2.1. 判断の礎: 不法な訴えに関する最高裁判例(最判昭和63年1月26日)の分析

企業によるスラップ訴訟の責任を問う上で、全ての議論の出発点となるのが、訴えの提起が不法行為となる要件を示した最高裁判所昭和63年1月26日判決である。この判決は、スラップ訴訟という概念が日本で広く認識される以前のものであるが、その後の下級審におけるスラップ訴訟の判断枠組みの礎となっている。

最高裁は、訴えの提起が相手方に対する違法な行為といえる場合を、以下の通り極めて限定的に解釈した。

  1. 提訴者の主張した権利又は法律関係が事実的、法律的根拠を欠くものであるうえ、
  2. 提訴者が、そのことを知りながら、又は通常人であれば容易にそのことを知り得たといえるのに、あえて訴えを提起したなど、
  3. 訴えの提起が裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠くと認められるときに限る。

この厳格な基準の背景には、裁判を受ける権利」を安易に制約してはならないという強い思想がある単に裁判で敗訴したという事実だけでは、直ちにその提訴が違法であったとはいえない

しかし、後述するスラップ訴訟に関する一連の裁判例は、この最高裁の枠組みを形骸化させることなく、むしろそれを現代的な文脈で解釈・適用する道筋を示した。特に、名誉毀損を理由とするスラップ訴訟において、裁判所は上記1.の「法的根拠の欠如」を形式的に判断するだけでなく、上記2.および3.の要件、すなわち提訴者の主観的な意図や訴訟の態様を重視する傾向を強めている。不相当に高額な請求額や、言論に対して言論で対抗せず直ちに訴訟という強硬手段に出る姿勢、同種の訴訟を乱発するといった客観的な行動から、「批判的言論を威嚇・抑圧する」という主観的な悪意を推認し、「著しく相当性を欠く」との判断を導き出しているのである。この解釈の進化こそが、企業によるスラップ訴訟の責任を司法の場で追及する鍵となっている。

2.2. ランドマーク判例: 企業・団体の責任を認めた裁判例

近年の下級審では、企業や団体が原告となった訴訟について、そのスラップ訴訟性を認定し、提訴行為自体を不法行為とする画期的な判決が複数言い渡されている。これらの判例は、前述の最高裁の枠組みを適用しつつ、スラップ訴訟特有の悪質性をいかに法的に評価するかという点について、重要な指針を提供している。

2.3. 企業の法的責任を判断する基準の統合: スラップ訴訟識別チェックリスト

上記判例の分析から、企業による提訴がスラップ訴訟(=違法な不法行為)と認定される可能性を評価するための、実用的なチェックリストを以下のように統合できる。

  1. 動機と意図:
    提訴の主たる目的が、正当な権利の実現ではなく、相手方を沈黙させ、嫌がらせをし、威圧することにあることを示す証拠(例:原告自身の言動、訴訟提起のタイミング)は存在するか?
  2. 請求の不均衡性:
    請求されている損害賠償額が、実際に生じたとされる損害や、同種の事案における認容額と比較して、著しく不相当・高額ではないか?
  3. 法的根拠の欠如:
    原告の主張が、事実的・法律的根拠を欠いており、そのことを原告自身が知っていたか、または容易に知り得た状況(例:先行する判決、公知の事実)は存在するか?
  4. 訴訟のパターン:
    当該企業が、同じ問題について複数の批判者に対して、同時期に、あるいは繰り返し訴訟を提起していないか?
  5. 公共の利益:
    被告の言論が、企業の不正行為、環境問題、政治とカネ、消費者の安全など、重要な公共の利害に関するものではないか?
  6. 代替手段の不存在:
    企業が、訴訟という最終手段に訴える前に、公式見解の発表、反論記事の掲載、対話の申し入れといった、言論による対抗手段を尽くした形跡がないのではないか?

これらの項目に複数該当する場合、その訴訟はスラップ訴訟と認定されるリスクが著しく高まる。

しかし、これらの判例を通じて明らかになったもう一つの重要な事実は、現行制度における深刻な「抑止力不足(Deterrence Deficit)」である。反訴によって認められる損害賠償額は、多くの場合100万円から200万円程度に過ぎない。この金額は、被告が被った精神的苦痛や社会的信用の毀損、そして膨大な応訴コストを十分に填補するには程遠い。さらに重要なのは、年間数百億円、数千億円の売上を誇る大企業にとって、この程度の金額は財務的に全く意味をなさず、批判者を黙らせるための「必要経費」として容易に受け入れられてしまうことである。象徴的に企業の行為を違法と断罪はするものの、その金銭的ペナルティは、将来の同様の行為を思いとどまらせるにはあまりに小さすぎる。この構造的欠陥こそが、次章で提言する抜本的な制度改革の必要性を裏付けている。

第3章:報復的訴訟を抑止するための多角的戦略

現行の「訴権の濫用」法理に基づく事後的な救済措置が、スラップ訴訟の抑止力として機能不全に陥っていることは明らかである。したがって、報復的な訴訟を最大限に牽制するためには、立法的措置、コーポレート・ガバナンスの改革、そして被害者支援体制の強化という三つの側面からなる、多角的かつ強力なアプローチが不可欠である。

3.1. 立法改革: 日本版「反スラップ法」制定の緊急性

最も根本的かつ効果的な解決策は、スラップ訴訟を直接規制するための立法、すなわち日本版「反スラップ法」の制定である。その設計にあたっては、既に同様の課題に直面し、先進的な法制度を構築してきた諸外国のモデルが重要な示唆を与える。

3.1.1. 国際モデル:米国(カリフォルニア州)とカナダ (オンタリオ州)の先進的メカニズム

スラップ訴訟対策において、特に参考となるのが米国カリフォルニア州とカナダ・オンタリオ州の法制度である。これらの制度は、単に事後的な損害賠償を認めるだけでなく、スラップ訴訟の「プロセスによる処罰」という本質を無力化するための、強力な手続き的介入をその核心に据えている。

これらの国際モデルが示す最も重要な教訓は、効果的な抑止力は、スラップ訴訟の費用便益分析を根本的に覆すことによって生まれるという点である。訴訟の早期段階で、敗訴すれば相手の弁護士費用を全額負担するという実質的なリスクを原告に負わせること(リスクのフロントローディング)で、安易な提訴を思いとどまらせるのである。

機能・特徴 日本(現行制度) 米国(カリフォルニア州モデル) カナダ(オンタリオ州モデル)
早期却下申立制度 なし。通常の訴訟プロセスを経る必要がある。 あり(特別棄却申し立て)。訴訟の初期段階で可能 あり。訴訟の初期段階で可能
立証責任の所在 原則として被告(反訴原告)が「訴権の濫用」を立証 二段階。まず被告が保護されるべき表現であることを示し、次に原告が勝訴の蓋然性を示す 二段階。まず被告が公共の利益に関する表現であることを示し、次に原告がメリット、抗弁の不存在、損害の重大性を示す
証拠開示の停止 なし。通常の訴訟プロセスで進行する。 あり。申し立ての審理中は原則停止 あり。申し立ての審理中は原則停止。
即時上訴権 なし。終局判決後でなければ上訴できない。 あり。棄却申し立てに関する命令に対して即時上訴が可能 あり。棄却申し立てに関する命令に対して即時上訴が可能。
弁護士費用の補償 反訴で勝訴した場合に損害の一部として認められるが、金額は限定的(通常1-2割) 棄却申し立てに成功した被告は、合理的な弁護士費用を原則全額回収できる(強制) 棄却申し立てに成功した被告は、原則として全額補償(full indemnity)の費用を回収できる

3.1.2. 日本独自の枠組みの設計:憲法・手続上の課題への対応

日本版「反スラップ法」を導入するにあたっては、裁判を受ける権利」との調和が最大の課題となる。しかし、スラップ訴訟が狙うのは権利の正当な実現ではなく、裁判制度の悪用による言論の抑圧である。したがって、制度の趣旨を濫用する行為から、憲法が保障するもう一つの重要な価値である「表現の自由」を保護するための特別な手続きを設けることは、十分に正当化されうる。

提案する日本版「反スラップ法」の骨子は以下の通りである。

  1. 特別早期却下申立制度の創設:
    被告が、訴えが公共の利害に関する自らの表現行為から生じたものであり、スラップ訴訟の疑いがあると主張する場合、訴訟の初期段階で「特別早期却下申立」を裁判所に提起できる制度を設ける。
  2. 審理の二段階構造と立証責任の転換:
    • 第一段階: 申立人(被告)は、訴えが「公共の利害に関する事項」についての表現行為から生じたものであることを一応示す責任を負う。「公共の利害」の定義は、判例で蓄積された基準(政治、環境、企業統治、人権等)を参考に、広く解釈されるべきである。
    • 第二段階: 被告が第一段階の立証に成功した場合、立証責任は相手方(原告)に転換される。原告は、カナダのモデルを参考に、①自らの請求に「実質的なメリット」があり、かつ②被告の表現によって受けた(または受けるであろう)損害が、その表現を保護する公共の利益を上回るほど深刻であることを、証拠をもって証明しなければならない。
  3. 弁護士費用全額補償の義務化:
    申立が認められ、訴えが棄却された場合、裁判所は、原告に対して、被告が訴訟対応に要した合理的な弁護士費用および訴訟費用の全額を支払うよう命じることを義務とする。これが最も強力な抑止力となる。
  4. 弁護士倫理の強化:
    弁護士会は、スラップ訴訟の受任が弁護士職務基本規程に違反する可能性があることを会員に周知徹底し、不当な訴訟に関与しないよう倫理規定を強化・明確化する

3.2. コーポレート・ガバナンスと人権デュー・ディリジェンス (HRDD)

立法による改革と並行して、企業自身の内部からの変革を促すアプローチも極めて重要である。これは、スラップ訴訟を単なる法務戦略の問題としてではなく、企業の評判、存続可能性、そして社会的責任に直結するコーポレート・ガバナンスおよび人権の問題として捉え直すアプローチである。

3.2.1. CSR-HRDD方針へのスラップ防止の統合:報復的訴訟を重大な人権リスクとして管理

国連の「ビジネスと人権に関する指導原則」は、企業に対して、事業活動を通じて人権(表現の自由を含む)を尊重する責任があると明確に定めている。国際社会では、スラップ訴訟は、企業の不正を告発する人権擁護者(Human Rights Defenders)に対する直接的な攻撃であり、深刻な人権侵害であるとの認識が広がっている。ビジネスと人権リソースセンター(BHRRC)などの国際NGOは、世界中のスラップ訴訟を追跡・記録し、特に鉱業、農業、林業といったセクターで多発していることを報告している。

この国際的な潮流を踏まえ、日本企業はスラップ訴訟のリスクを人権デュー・ディリジェンス(HRDD)のプロセスに明確に組み込むべきである。これは、自社の事業活動やサプライチェーンが人権に与える負の影響を特定・評価し、その防止・軽減を図る一連のプロセスである。具体的には、法務部門が批判的な言論に対して訴訟を検討する際に、その提訴自体が表現の自由を侵害し、人権擁護者を攻撃する行為(=スラップ訴訟)に該当しないかを評価する仕組みを構築することが求められる。

3.2.2. 投資家とステークホルダーの役割: 市場からの圧力の活用

スラップ訴訟は、訴訟費用や賠償リスクだけでなく、企業の評判を著しく毀損し、ESG(環境・社会・ガバナンス)評価を下げる要因となる。近年、責任ある投資家たちは、投資先企業がスラップ訴訟に関与することを重大なリスクと見なし始めている。2700億米ドル以上の資産を運用する44の機関投資家が、企業に対してスラップ訴訟を利用しないよう求める共同声明を発表したことは、その象徴的な動きである。

この流れは、企業にとって強力なインセンティブとなる。投資家からの信頼を維持し、資金調達を円滑に進めるためには、スラップ訴訟を提起しないという明確な方針を打ち出し、それを遵守することが不可欠となる。

3.2.3. 提言:倫理的訴訟と建設的な批判対応のための企業ガイドライン

以上の考察に基づき、企業の法務・広報・CSR部門が遵守すべき具体的な行動指針を以下に提言する。

  • 提訴前の厳格な自己評価:
    公共の利害に関する批判に対して名誉毀損等で提訴を検討する際は、必ず法務部門が第2.3節で示した「スラップ訴訟識別チェックリスト」に基づき、自己評価を実施する。
  • 非訴訟的対応の優先:
    提訴に踏み切る前に、ウェブサイトでの反論掲載、記者会見での見解説明、批判者との対話など、言論による対抗手段を尽くしたことを記録し、証明できるようにする。
  • 請求額の合理性:
    万が一訴訟を提起する場合でも、請求する損害賠償額は、誇張や威嚇を目的とせず、客観的に証明可能な実損害に基づく合理的な範囲に限定する。
  • 取締役会レベルの監督:
    ジャーナリスト、研究者、市民活動家などに対する訴訟の提起は、企業の評判に甚大な影響を及ぼしうるため、法務部門の一存で決定せず、取締役会または倫理委員会の承認を必須とする。
  • 公約としての情報開示:
    CSR報告書や統合報告書、人権方針において、「当社は、正当な批判や言論活動を封殺することを目的としたスラップ訴訟を提起しません」と明確に公約する

3.3. 被害者(ターゲット)のための実践的な防御・支援メカニズム

立法や企業統治の改革には時間を要する。それまでの間、そして改革後も、スラップ訴訟の標的とされた個人や団体を守るための実践的な防御策と支援体制を強化することが不可欠である。

3.3.1. 反訴:現行法下における主要な防御・抑止の武器

現行法下において、被告が取りうる最も強力な対抗手段は、不当訴訟を理由とする損害賠償請求の反訴(Counter-suit)を提起することである。反訴は、単に防御に徹するだけでなく、攻勢に転じることで、審理の焦点を原告の不当な提訴行為そのものへとシフトさせる効果がある。これにより、原告の行動の悪質性を法廷で明らかにし、スラップ訴訟であるとの認定を勝ち取る道が開かれる。賠償額は不十分であるものの、訴訟費用のいくらかを回収し、相手方の行為が違法であったという司法判断を得るための唯一の道である。

3.3.2. 強固な支援ネットワークの構築: NPO、弁護士会、プロボノの役割

個人や小規模団体が独力で大企業のスラップ訴訟に立ち向かうのは極めて困難である。そのため、社会全体で被害者を支えるネットワークの構築が急務となる。

  • NPOによる支援:
    スラップ訴訟被害者の裁判費用や弁護士費用を支援したり、専門の弁護士を紹介したりするNPO法人の活動は極めて重要である。これらの団体の活動基盤を強化する必要がある。
  • 弁護士会の役割:
    各地の弁護士会が、スラップ訴訟に関する専門の相談窓口を設置し、プロボノ(無料法律相談・代理)活動を組織的に推進することが期待される。
  • 情報共有と連帯:
    被害者、支援者、弁護士が情報を共有し、戦略を練るためのプラットフォームを構築することで、孤立しがちな被害者を精神的にも支え、効果的な訴訟活動を可能にする。

3.3.3. 経済的基盤の強化: 弁護士費用保険の限界と課題

スラップ訴訟のリスクに備える手段として、弁護士費用保険の活用が考えられる。しかし、既存の保険商品の多くは、スラップ訴訟の防御には適していないという大きな課題がある。

  • 補償範囲のミスマッチ:
    多くの個人向け保険は、交通事故のような「特定偶発事故」を主たる対象としており、名誉毀損のような「一般事件」は補償対象外であったり、補償が限定的であったりする。
  • 不担保期間・待機期間:
    離婚や労働問題など、特定の一般事件については、加入から一定期間(例:1年)が経過しないと補償が開始されない「不担保期間」が設けられていることが多く、緊急の事態に対応できない
  • 補償上限額の不足:
    補償の上限額は、長期化・複雑化するスラップ訴訟の弁護士費用 (1000万円を超える可能性もある)を賄うには全く不十分である。
  • 対象外となる紛争:
    刑事事件や行政庁を相手とする紛争は、多くの場合、補償の対象外とされている

この現状は、スラップ訴訟の被害者が直面する経済的脆弱性を埋めるための、新たな仕組みの必要性を示唆している。具体的には、NPOや公的機関が運営する「スラップ訴訟防衛基金」の設立や、ジャーナリストや市民活動家を対象とした、より高額かつ広範なリスクをカバーする専門の弁護士費用保険商品の開発が望まれる。

第4章:結論と戦略的提言

本報告書は、日本におけるスラップ訴訟が、単なる個別の法的紛争ではなく、表現の自由を脅かし、健全な市民社会の発展を阻害する構造的な問題であることを明らかにした。企業が原告となる報復的訴訟に対し、日本の司法は「訴権の濫用」という法理を用いて一定の責任を認める判断を積み重ねてきた。しかし、その救済は事後的かつ限定的であり、スラップ訴訟の根本的な抑止力としては機能していない。この「抑止力不足」を克服し、言論の自由と企業の社会的責任を両立させるためには、断固たる多角的な改革が不可欠である。

以下に、本報告書の分析結果に基づき、各ステークホルダーが取るべき行動を戦略的提言として集約する。

1. 国会・政府(立法府・行政府)への提言

最優先課題: 日本版「反スラップ法」の制定

米国カリフォルニア州およびカナダ・オンタリオ州の法制度を参考に、以下の三つの柱を盛り込んだ特別法を速やかに制定すること。

  1. 早期却下申立制度:
    被告が訴訟の初期段階でスラップ訴訟である旨を申し立て、裁判所が迅速に判断する手続きを創設する。
  2. 立証責任の転換:
    申し立てがあった場合、原告側に、訴えに実質的メリットがあり、かつその訴えを継続する公益が被告の表現の自由を保護する公益を上回ることを立証する責任を負わせる。
  3. 弁護士費用の全額補償義務化:
    申し立てが認められ訴えが棄却された場合、原告に対し、被告が負担した合理的な弁護士費用および訴訟費用の全額を支払うことを裁判所に義務付け、強力な経済的抑止力とする。

2. 企業(経営者・法務部門・CSR部門)への提言

経営課題としてのスラップ対策の確立

  • 人権方針における「反スラップ」の公約:
    企業の公式な人権方針またはCSR方針において、「表現の自由を尊重し、市民社会の正当な監視活動や批判的言論を威嚇・封殺することを目的としたスラップ訴訟を提起しない」と明確に宣言する。
  • 倫理的訴訟ガイドラインの導入:
    本報告書で提言した「倫理的訴訟と建設的な批判対応のための企業ガイドライン」(第3.2.3節)を社内規程として導入し、提訴前の厳格な自己評価、非訴訟的対応の優先、取締役会レベルでの監督を徹底する。
  • 人権デュー・ディリジェンスへの統合:
    自社の法務戦略が表現の自由に与える影響を、人権デュー・ディリジェンスの評価項目に含め、スラップ訴訟のリスクを能動的に特定し、防止・軽減する。

3. 投資家・ESG評価機関への提言

エンゲージメントと評価基準への反映

  • スラップ訴訟を重要なESGリスクとして評価:
    投資先企業の選定やESG評価において、企業による訴訟の提起パターンを監視し、スラップ訴訟への関与を重大なガバナンス上の欠陥および人権リスクとしてネガティブ評価の対象とする。
  • 企業への積極的な働きかけ:
    エンゲージメント(建設的な対話)を通じて、投資先企業に対して反スラップ方針の採択と公表を強く求める。

4. 市民社会・法曹界(NPO・弁護士会)への提言

被害者支援体制の組織的強化

  • 「反スラップ訴訟支援センター」の設立:
    資金援助、プロボノ弁護士のマッチング、戦略的アドバイス、精神的サポートをワンストップで提供する、全国的な支援拠点を設立する。この運営は、NPO、弁護士会、学術界の連携によって担われるべきである。
  • 専門弁護士費用保険制度の創設・推進:
    保険業界と連携し、ジャーナリスト、フリーランス、NPO職員などを対象とした、スラップ訴訟のリスクを現実的にカバーできる、手頃な価格の専門保険商品の開発を働きかける。
  • 判例データベースの構築と公開:
    スラップ訴訟に関連する国内外の判例、分析、訴訟戦略に関する情報を集約した公開データベースを構築し、被害者と弁護士が容易にアクセスできるようにする。

これらの提言の実現は、一朝一夕には成し遂げられない。しかし、それぞれのステークホルダーが自らの役割を認識し、連携して行動を起こすことによってのみ、報復的訴訟という社会の病理を克服し、誰もが萎縮することなく自由に発言できる、真に開かれた社会を築くことができるのである。